Home > 愛農かまどとは > 愛農かまどの歴史・成り立ち


1958年(昭和33年)に刊行された『農家向き改良かまど 作り方 扱い方』という本があります。

その「第一章 かまどの改善」には、当時の日本では1年間に1億2000万石(およそ3360万立方メートル)の木材を燃料として消費していたこと、その消費量は成長量の2.5倍にあたり、17年後には日本の山が丸裸になる計算になることが書かれています。
また、日本全体の消費エネルギーのうち37%が家庭で消費されており、そのうちの85%が薪炭によってまかなわれているともあります。

愛農会は戦後間もない1945年12月、和歌山県出身で同県の青年師範学校で教鞭をとっていた
小谷純一(こたに じゅんいち)と、その教え子だった16名の農村青年が
興した愛農塾が発端となり始まりました。


小谷の戦争への猛烈な反省から「平和への祈り」を掲げ、農民による「愛と協同の家づくり、村づくり」を礎にした平和な国を作ろうと、良心に目覚めた自立した農民を育てるための人づくり運動を行っていました。

戦後の食糧難にあって一人の餓死者も出してはいけないとの思いから食糧増産に取り組むとともに農家の台所改善にも
力を入れており、かまどの改善にも取り組んでいました。

少ない薪でおいしくご飯が炊ける愛農かまどは、冒頭にあるような時代背景のなか、当時愛農会が主催する講習会で料理の講師を務めていた酒井章平氏により考案され、戦後の農村に普及されました。
しかし昭和30年代も半ばになると、農村部でも薪や炭から電気・ガスの生活へと切り替わり、愛農かまどは時代の流れとともに忘れ去られていったのです。

愛農かまどが現代に息を吹き返したのは2004年のこと。
その昔、三重県内に400基もの愛農かまどを作ったという故・北村勝一(きたむら かついち)さん(1923~2015年)が、愛農会員の野呂由彦(のろ よしひこ)さん宅に一基を据え付けたのです。
きっかけは、野呂さん宅にあった一口の小さなかまどが壊れたことでした。

「しょうがないなぁと思っていたら、北村さんのお宅を改修するのに屋根裏部屋を整理していたら出てきたというので、『これを使って作りなさい』と、愛農かまどの木型を一対持って来てくれたんですよ。」(野呂さん)

岩手県出身の野呂さんは、結婚と同時に三重県多気町にある妻の千佳子さんの実家に入り、以来代々受け継がれてきた田畑の耕作と山の管理、養鶏を行ってきました。

隣町に住んでいた北村さんと義両親が愛農養鶏仲間だったこともあり、北村さんは野呂さん宅をときどき訪ねて来られていたそうです。

「北村さんにときどきお会いして
お話をお聞きするなかで、
愛農かまどの話もしてくださったんだけれども、
そのなかですごく印象に残っている話があるんですよ。
雨の日に外作業ができないからというので、

北村さんの奥さんが
『今日はシュークリームでも作りましょうか』って、
自分のところで作っている小麦と、
卵と、ヤギのミルクと、ハチミツとで、
愛農かまどでシュークリームを焼いてくれたというんですね。

それがすごく豊かな生活だなぁと思えて、


僕が『北村さん、いいですね』と感激して言ったのを覚えてくれていて、うちのかまどが壊れたタイミングと、
北村さんのお宅の屋根裏から木型が出てきたタイミングが合ったこともあって、木型を持って来て下さったんですよ。」(野呂さん)

少ない薪でおいしくご飯が炊ける愛農かまどの機能性は木型があってこそ実現するものでかまど作りに木型は必須。
しかし、木型はあれど設計図はなく、「一人ではどうしようもない」と、野呂さんは北村さんに製作を依頼したのだそうです。

北村さんは「野呂君に覚える気があるなら」ということで、野呂さん宅に愛農かまどを作ってくださることになりました。

「農閑期、仕事の合間にときどき来ては、身体が覚えているんでしょうね、設計図もなしに作ってくれてね。
でももう80歳を越えていて体調もあまり良くなかったから、
一気には作れず、一日に一段ずつ積み重ねてくれたんですよ。
作業の合間にはみんなでお茶を飲んで休憩しながら、そのときに戦後かまどを普及していた話しや北村さんの人生について聞かせてもらってね、それが僕にとってはすごく貴重な時間だったんですね」。

中でも野呂さんの胸に重く刻まれたのは、北村さんの戦争体験と、戦争に翻弄されたその人生についてのお話でした。

北村勝一さんのこと

1923年生まれの北村さんは18歳のとき(昭和17年・1941年)、
日本が国策として進めていた満蒙開拓青少年義勇軍として、当時日本の支配下にあった満州(中国東北部)に送られました。

しかしその翌年には徴兵され、インドネシアをへてフィリピンへ。自動車運転員としてマニラの部隊に配置されたのは敗戦の色濃い1944年10月のことでした。

最初に与えられた仕事は日本兵の死体運び。
来る日も来る日も朝から晩まで、多いときには50体、60体という死体をトラックに乗せ、銃撃を避けるためにライトを
消して、暗闇のなか運んでいたのだそうです。

翌年1月には司令部をマニラから山間地のバギオに移すことになり書類をトラックに積んで移動しますが4月には戦況の
悪化を受けて部隊は解散、トラックを谷に捨て、仲間とともに徒歩で山のなかへ逃れました。

「食べるものを探すことが戦争だった」と、

2004年に愛農会が開催した平和セミナーのなかで北村さんが語っておられますが、「バッタがごちそう」という極限状態のなか、仲間は次々と亡くなり、北村さんも腰周りが自分の両手でつかめるほどに痩せ細り、髪は抜け落ち、目も満足に見えなくなり、傷は化膿し、「あと10日も敗戦が遅かったら死んでいた」というほどに衰弱していきます。

しかし命を落とす前に敗戦となり、
米軍がばら撒いた投降を呼びかけるビラを信じて山を下りたところ米軍のトラックに拾われて九死に一生を得たのです。

その後、収容所で体力を回復し帰国を果たしたのだそうですが、北村さんのご家族は敗戦間近の昭和20年3月、
満蒙開拓団に応募して家と田畑を売り払い満州へ移住しており、やっとたどり着いた家はすでに
北村さんたちのものではなく、迎え入れてくれる家族もいませんでした。

北村さんは仕方なく親戚を頼り、
親戚宅の軒先を貸してもらったムシロで囲い、
ゼロから生活をスタート。
結核で片肺を失い無理のきかない身体に
なりながらも、働いては少しずつ田畑を
買い戻し、土地を買って家を建て、
歩んでこられたのだといいます。
(写真中央が北村さん)

「北村さんの戦争体験というのは、
ご自身が生きるか死ぬかという壮絶な出来事だったわけだけれども、
それだけでなく、ご家族が満蒙開拓団に参加してしまわれて、現地で徴兵されたお父さんを亡くされ、
帰国する際にお母さんと妹さんも亡くされて、別の妹さんは弟さんたちとはぐれて中国に残されたりしたということや、

その妹さんを北村さんが何度も中国に通って見つけ出し、
ご家族みんなを日本に呼び寄せてお世話をされていたことなどを、ここでかまどを作ってくれる中で休憩時間に聞かせてもらったんですよね。
そのお話が戦争を体験したことのない者として私の心にすごく残っていたんです。」(野呂さん)

拡がり始めた愛農かまど

そうして北村さんの手によって野呂さん宅に愛農かまどが復活した翌年の2005年、
滋賀県にあるブルーベリーフィールズ紀伊國屋オーナーの岩田康子さんから愛農会に一本の電話が入りました。

それは「レストランにかまどを据えたいのだが、何かいいかまどはないだろうか」という内容でした。

電話を取った愛農会スタッフが野呂さん宅に設置された愛農かまどのことを伝えると、
岩田さんはさっそく野呂さん宅を訪問、岩田さんは野呂さんに製作を依頼し、野呂さんが作りに行くことになったのです。

「北村さんと作ったときにはまさか自分が作ることになるとは思っていなかったから、
北村さんに言われるままにモルタルを練ったりレンガをカットしたりしていただけだったしね、設計図もないから、

ブルーベリーフィールズでは
『どういうふうにふうに作ったんだろうかなぁ』と思い出しながら、
何枚か撮っていた部分部分の写真を見ては、
岩田さんの息子さんやスタッフの人たちといっしょにああでもない、こうでもないと言いながら作っていったんですよ。」

ブルーベリーフィールズ紀伊國屋(ソラノネ)での愛農かまど体験はこちら

こうしてブルーベリーフィールズに1基が完成した後、
愛農かまどは系列のレストランやカフェなどに次々と据え付けられ徐々に知られていくことになりました。


野呂さんに設置依頼が舞い込むことも増えてゆき、ご縁に導かれるように野呂さんは、
これまで全国に45基のかまどを据え付けてこられました(2023年9月現在)。

みんなで作る愛農かまど

かまどの製作にかかる日数はおおよそ3日間。
そのなかで私たちが大切にしたいと思っているのは
「みんなで作る」ということです。
モルタルを練る、レンガを積む、粘土を詰める、レンガを削るなど、愛農かまどを造る工程にはさまざまな作業が
あり、大人から小さな子どもたちまで誰でも関わることができます。
「かまどを作る」ということを通して出会った人と人が、
共にかまどを作る喜び、完成させた喜び、初めてかまどに火を入れるときの喜びを共有することができる、
それもまた愛農かまどの豊かさなのです。


暮らしのなかで使っていくかまどの製作にご自身が参加することは、
暮らしを自分で作る楽しみ、喜び、豊かさを感じさせてくれます。

また、愛農かまどの技術と木型を野呂さんに受け渡してくださった北村さんの人生のお話など、
かまどの背景にある先人の思いや開発の歴史を、愛農かまどを作る現場に居合わせてくださった方、これから使っていくみなさんと共有することも大切にしています。

それは、愛農かまどは単に「熱効率のよいオーブン付きのかまど」にとどまらず、
私たちに「生きる」ということを問い直すきっかけをくれる道具であると思うからです。

平和の愛農かまど

もっと便利に、もっと効率よくと進んできた私たちは、自然から離れ、暮らしを作る手仕事や労働から離れ、
ひたすらに「目先の楽」を求めてきました。

その結果、自分の暮らしを自分で作る喜びや、工夫をすることの楽しみ、人と人とのつながりは失われ、多くの人、
そして地球上の他の生き物にとっても生きづらい世の中になっているように感じます。

その反動か、昨今、火のある暮らしや土へ回帰しようという動きも見られ始め、愛農かまども注目を集めるようになってきました。

「便利で楽な暮らしの向こう側」を喜びと共に選び生きていくこと。
互いに奪い合わず「平和」を生きていくために、いまそのことが求められているように思います。


愛農かまどはその実践の一つであり、そこには人が人らしく生きるためのぬくもりが詰まってるのです。

薪に火を点けること、燃えている火を眺めること、
その燃料となる木とそれが育っている山に思いを馳せること、
みんなで作ったかまどでご飯を炊きみんなで食べること、
かまどは、私たちが自然の恵みに生かされ、人とのつながりのなかで生きていることを思い出させてくれます。

その実感がまた、平和へと繋がっていくことを願っています。

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